2012年の夏、鉄道でミラノのチェントラーレ駅からボローニャまで行くのに特急を利用しましたがその列車がバーリ行きでした。
バーリと申し上げてもなかなかお分かりにならないと思いますが、地図で申しますと長靴の形をしたイタリア半島のちょうど踵の所にあるアドリア海に面した港町であります。
この遠い港町はいつか訪れてみたいと思っておりましたのでちょっと気にかかりました。
私はイタリアの街々を常にオペラ関連で思い出します。
例えばペーザロはロッシーニとテバルディ、デル モナコの墓、ナポリはサンカルロ劇場とカルーソ、アンコナはコレルリ、ボローニャはライモンディ、トリエステはカップチルリといった塩梅です。
さてバーリはどうかと申しますとまずMETで活躍した往年のソプラノ、ルチア アルバネーゼ、日本のオペラ発展の功労者の一人、二コラ ルッチの出身地であります。
そしてもう一つ名テノール、カルロ ベルゴンツィがバリトンからテノールに転向して初めて成功を勝ち得た地であります。
テノールに転向したことは失敗した時のことを考えて奥さんにも内緒にしていたのだそうです。
第二次世界大戦時にドイツ軍の捕虜になりバルト海沿いの収容所から命からがら帰国を果たしパルマ音楽院を卒業して何とかバリトンでデビューしましたが今一つパッとしませんでした。
ベルゴンツィ本人曰く声が話にならない位小さかったのだそうです。
当時のバリトンと言えばシルヴェーリ、タリアヴェ、グエルフィなど声量の豊かな人たちが揃っておりましたので敵うわけがありませんでした。
ある日のこと発声練習で上のほうの音を試しに出してみるとかなり上のほうまで出せることを発見しました。
このまま二流のバリトンで終わるかテノールに転向して挑戦してみるか悩みましたが勝負することにいたしました。
お産にかこつけて奥さんを実家に帰してミラノのアパートで音叉を頼りに少しずつ音域を拡げていく孤独な戦いが始まりました。
元より先生などと贅沢なものは存在しません。友人の家でピアノを借りてどうにかラダメスとアンドレアシェニエをマスターしました。
早速エージェントのオーディションに臨むとすぐに仕事をもらえました。
ピアチェンツアのアイーダでした。
ただそこは故郷が近いので失敗したら顔を上げて家に帰れないというプレッシャーで断るとバーリでのアンドレアシェニエを紹介されました。
バーリは南イタリアで故郷から遠く離れておりましたのでやることにしました。
運命の日は1951年1月12日でした。
緊張して慎重に1幕後半の即興詩のアリアを歌い終わり聴衆から拍手もきました。
やれやれどうやら行けそうだと思いつつ1幕を終え楽屋に戻ると一通の電報が舞い込みました。それは長男の誕生を告げるものでした。
「やったぞ!やったぞ!」と父親になったベルゴンツィは勇気百倍で2幕以降は興奮して自分でも驚くくらい大胆に歌いました。大成功でした。
このバーリの田舎劇場の成功がヴィクトリーロードに繋がりました。
折よくイタリア国営放送のディレクターが聴いていたのです。
このテノールは使えると直感したのでしょう。
ちょうどその年にヴェルディ没後50年を記念してオペラ全曲をラジオ放送する企画が持ち上がっていたのでした。
早速ベルゴンツィに打診がありました。二人のフォスカリのヤコポとシモン ボッカネグラのガブリエーレの依頼でした。しかも他のテノールがキャンセルした場合はそのキャンセルされた役も歌うというものでバリトン時代とは比較にならない高額なギャラでした。
いやも応もありません。
喜び勇んでサインをしたそうです。
自宅には奥さんと生まれたばかりの長男が待っていました。
会うなり奥さんが「カルロ、バーリはどうだった?新聞ではあなたのシェニエをほめていたけどあなたはジェラールじゃなくて?」と言いました。
ベルゴンツィは優しく微笑み今までの経緯を謝り説明したのでしょう。
僕はテノールだよと。
ベルゴンツィは度々来日いたしましたので生でお聴きになった方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。
1967年のNHKイタリアオペラの公演でルチアのエドガルド、仮面舞踏会のリッカルドのノーブルでスタイリッシュな歌唱は今でもお手本です。その時のルチアはスコット、アメリアはステルラでした。
オペラの舞台を退いてからもリサイタルでたびたび来日しています。
私は若い頃東京のリサイタルに行けませんでしたので広島までわざわざ聴きに行きました。
懐かしい思い出です。
ベルゴンツィの芸風は外連が無く歌そのもので勝負する地味で玄人好みなものでしたから日本での人気はデル モナコ、ディ ステファノと比較すると今一つでした。
ベルゴンツィ本人も「鏡の前に立つと農家出身の平凡なイタリア男が立っている。コレルリのような美男にはなれないのだから歌で勝負するしかなかったのだ」と言っています。
私も高校生の時デッカのカラヤンのアイーダのレコードで配役がテバルディのアイーダにベルゴンツィのラダメスでしたがラダメスがデル モナコだったらと思いましたしEMIのカラスの二度目のトスカの録音のカヴァラドッシがベルゴンツィでこれも失望いたしました。
若気の至りであります。
過酷なまでに楽譜に忠実なシュアな歌唱とそれを可能にする確かなテクニックでベルゴンツィはおびただしい録音を遺しました。
特にヴェルディは定評があり先日もプロのオペラ歌手の方が手前共の店にベルゴンツィがドン アルヴァ―ロを歌う運命の力をお探しにいらっしゃいました。
他にもベルゴンツィが歌うリッカルド、ラダメスのライブ録音のお問い合わせをいただくことがあります。
このようにベルゴンツィはきちんと歌いたい方や音楽的充実を求める方たちの圧倒的な支持を得ております。
さてテノールに転向した際の思い出の役柄ですが正規盤は遺しませんでした。
当時アンドレアシェニエのレコードはデッカにはデル モナコが歌ったものがありEMIにはコレルリのものがありました。
歌手の個性で聴かせる作品ですのでちょっと地味なベルゴンツィで録音する理由がレコード会社にも見つからなかったのでしょう。
それにこの作品自体音楽としても二流でベルゴンツィの音楽性を追求する外連のない歌唱ですと作品の弱さが露呈してしまうこともあります。
ヴェルディの作品とは質が違うのです。
それでもライブ録音は私の知る限り二種あります。
1970年のロンドンライブと1972年のヴェネツィアライブです。
ロンドンライブはグアダーニョの指揮でマッダレーナがグリン、ジェラールがミルンズです。
オケがフィルハーモニアですから演奏会形式だと思います。
ヴェネツィアライブは指揮がペロソという人でマッダレーナはカヴァイヴァンスカ、ジェラールはプロッティでフェニーチエのライブです。
1951年の共演者とは比較にならないほどの一流の共演者だったでしょう。
かつてテノールに転向して初めて成功した役を約20年後に一流の劇場で一流の共演者と歌う気持ちはどんなものだったでしょう。
ミルンズ、プロッティの声を聴いてテノールに転向して正解だったと思ったのでしょうか。
聴いてみますと端正な歌い口で上品ですがデル モナコ、コレルリを聞きつけている方に
は物足りなさがあるかもしれません。
ヴェリズモでも歌い崩さず泣きも入れず端正に歌う。
まさに玄人好みのテノールでした。
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