さて、今回はドメニコ・チマローザがプロデビューした後を書いていきます。この当時のイタリア人音楽家の需要は凄まじく、世界中から呼ばれ、世界中を駆け回っておりました。ドメニコ・チマローザも例に漏れず、各地で引っ張りだこになります。
アヴェルサ出身のこの作曲家は、ナポリの町でパスクアーレ・ミリロッティ(Pasquale Mililotti)の台本による初のオペラ『レ・ストラヴァガンツェ・デル・コンテ(伯爵の奇行)Le stravaganze del conte』を上演します。これは音楽喜劇だったそうです。このデビューは1772年のカーニバルの時期で、ナポリのオペラ・ブッファの殿堂であるフィオレンティーニ劇場(Teatro dei Fiorentini)で上演されました。いきなりトップの劇場でデビューです。これに続きコメディア・デラルテを元にしたファルセッタ(小さい笑劇)『レ・マジーエ・ディ・メルリーナ・エ・ゾロアストロ(メルリーナとゾロアスターの魔法)Le magie di Merlina e Zoroastro』が上演されます。このデビューにより、「良い作曲家がいるぞ!」と話が広がり始めます。彼の作品はローマで人気となり、特にヴァッレ劇場(Teatro Valle)では、彼の喜劇的幕間劇が上演されるようになります。
1777年はローマへの第一歩をしるした年でした。インテルメッツォ(幕間劇)『イ・トレ・アマンティ(3人の恋人)I tre amanti』に続き『イル・リトールノ・ディ・ドン・カランドリーノ(ドン・カランドリーノの帰還)Il ritorno di Don Calandrino』、『イル・マトリモーニオ・ペル・ラッジーロ(策略のための結婚)Il matrimonio per raggiro』、『リタリアーナ・イン・ロンドラ(ロンドンのイタリア女)L’italiana in Londra』とオペラが上演されました。特に最後の作品は大成功を収めます。1778年12月28日、ヴァッレ劇場で初演された後、1780年7月10日、ミラノ・スカラ座でチマローザのオペラとして初めて上演され、その後まもなくドレスデンでも上演されます。これでイタリア中の劇場が彼とコンタクトを取るようになります。
これから10年の間、チマローザはイタリア中を回って、彼のオペラ、オラトリオなどを演奏します。彼の作品はミラノ、トリノ、ジェノヴァやヴェネツィアなどイタリア内だけではなくマドリード、ウィーン、果てはサン・ペテルブルグなど世界中で人気となります。またトスカーナ大公国のレオポルド1世(のちの神聖ローマ帝国のレオポルド2世)に招待されてフィレンツェに滞在した折には、大公の宮廷にてコンサートを行い、彼が自身の作品を歌ったそうです。歌手としても、かなりの実力であったようですね。
1787年、チマローザはロシアへ旅立ち、エカチェリーナ2世の宮廷のあるサン・ペテルブルグに着きます。女帝からサン・ペテルブルグの宮廷音楽士長になるよう要請されたからです。到着するとすぐに女帝に謁見しますが、彼は歌手として演奏を行い、女帝は感激し、彼女の甥2人にレッスンをするように命じたとのことです。この寒い大地での滞在は4年弱ほどになりますが、芸術的な観点からは、作曲家として最良の時期ではありませんでした。ロシアで書いた3つのオペラ作品のうち『クレオパトラ Cleopatra』のみが大成功を収め、1804年まで、すなわちチマローザの死後3年まで上演され続けました。最終的にロシアはポーランドの反乱が起こったために戦争の準備が始まり、女帝は節約を余儀なくされます。そのため劇場の閉鎖などもあり、チマローザは女帝から多くの贈り物をされて、イタリアへ向け旅立ちます。
1791年、チマローザはロシアを離れ、ポーランドへ行きワルシャワに3ヶ月間滞在をします。その間にオペラ3作品を上演します。その後、オーストリアの皇帝レオポルト2世(元トスカーナ大公レオポルド1世)の招きによりウィーへ行きます。まさしくモーツァルトの亡くなった12月にウィーンに入ったようです(モーツァルトが亡くなったのは1791年12月5日)。このハプスブルグ帝国の首都で大歓迎を受け、チマローザは帝国宮廷音楽士長に任命されます。ウィーンで彼は詩人のジョヴァンニ・ベルターティ(Giovanni Bertati)と知り合います。この幸福な出会いが、18世紀のオペラ・ブッファの傑作『秘密の結婚 Il matrimonio segreto』を生み出します。このオペラは現在でも演奏される作品です。初演の時には、皇帝のリクエストに応じて、全曲がアンコールされたという逸話があります。その後、『アモール・レンデ・サガーチェ(愛は抜け目なく)Amor rende sagace』『レ・アストゥーツィエ・フェンミニーリ(女のたくらみ)Le astuzie femminili』などが作曲されます。
1793年、チマローザは6年ぶりにナポリに帰ってきます。多分、春頃だったと思われます。温かい歓迎を受け、フィオレンティーニ劇場で『秘密の結婚』を上演します。これは大人気となり、なんと110回もの公演が行われました。
1796年、チマローザはヴェネツィアのフェニーチェ劇場で、彼の書いたオペラ・セリアの中での最高の作品と言われる『リ・オラーツィ・エ・クリアーツィ(ホラティウス派とクリアティウス派)Gli Orazi e Curiazi』が上演されました。
この後、チマローザの晩年はライバルであったパイジエッロ(Giovanni Paisiello)との不和など、苦いものとなるのですが、特に1799年は不幸な年でありました。この頃のナポリは革命運動に燃え上がっていました。フランス革命の後、フランス共和国軍がイタリアへ攻め入りますが、これを後ろ盾としてナポリ共和国(Repubblica Napoletana、パルテノペア共和国 – Repubblica Partenopea – ,とも言う。パルテノペアとは「ナポリの」と言う意味。ただ正確にはナポリ共和国が正しい…らしい。)が1月23日に成立します。チマローザはこの運動に魅了され、自由党(partito liberale)へ入党し、ルイージ・ロッシ(Luigi Rossi)の詩に愛国的讃歌を作曲します。しかし、これがチマローザの運命を激変させます。
こののち革命派が敗北しブルボン王朝の王政復古により粛清の嵐が吹き荒れます。チマローザは政治的友人たちと共に捕えられ、死刑を宣告されます。幸運なことに、チマローザの崇拝者たちが取りなしに動いてくれたおかげで減刑され、ナポリからの追放となります。彼はサン・ペテルブルグへ向かうつもりだったようですが、健康上の問題で断念し、ヴェネツィアに居を構えることになります。そして1801年1月11日、聖天使広場(カンポ・サンタンジェロ Campo Sant’Angelo)にあるドゥオード宮殿(パラッツォ・ドゥオード Palazzo Duodo)で息を引き取ります。彼は聖ミカエル大天使教会(キエーザ・ディ・サン・ミケーレ・アルカンジェロ Chiesa di San Michele Arcangelo)に埋葬されますが、教会が崩落したため、遺骨は失われてしまったそうです。
チマローザは、このように波瀾万丈の人生を送ったたわけですが、特に彼の晩年は、皆さんがよくご存知の作品に関わっています。この辺りは、次回のコラムでお話しいたします。
岡野 守 プロフィール
バス・バリトン。イタリア・モデナ在住。
早瀬一洋、Arrigo Pola、Carmela Stara、Luciano Berengo、Giuliana Panza に師事。
ペルゴレージ作曲『奥様女中』(Uberto)、モーツァルト作曲『ドン・ジョヴァンニ』(Leporello)、『コシ・ファン・トゥッテ』(Don Alfonso)、ロッシーニ作曲『セヴィリアの理髪師』(Don Bartolo)、ドニゼッティ作曲『愛の妙薬』(Dulcamara)、ヴェルディ作曲『運命の力』(Fra Melitone)、ビゼー作曲『カルメン』(Dancairo)、プッチーニ作曲『トスカ』(Il Sagrestano)、『ジャンニ・スキッキ』(Gianni Schicchi)、『トゥーランドット』(Ping)等を歌っている。藤原歌劇団団員。
オペラを中心に声楽家として活動していたが、師匠たちから「お前は、私の知らないことばかり知っている!」「Musicologo(音楽学研究家)もやれ!」と言われ、良い気になって、雑学的音楽コラムを書き始める。
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