コラム

ポンテ カラス

2015年の夏、私は初めてヴェネツイアを訪れました。
皆様ご存知のようにヴェネツイアは人工の島です。町の中に自動車は入れませんので移動は水上バス、ボートタクシー、そして徒歩になります。
玄関口の鉄道のサンタ ルチア駅からサンマルコ広場近くのホテルまで水上バスは混雑しており人が鈴なり状態でしたので乗る気力がなくなりボートタクシーに乗りましたが60ユーロも取られました。日本円で約8500円くらいでしょうか。

夏のヴェネツィアは暑いのと人が多いのとで印象は正直申しましてあまり良いものではありませんでした。名物のゴンドラも観光客でかなり繁盛しておりましたが、小運河がゴンドラで渋滞していてしかも炎天下ですから呼び込みに応じる気にはまるでなりませんでした。

ただ新宿駅西口のように混雑しているサンマルコ広場と高級ブティックが立ち並びアカデミア橋に通じる三月二十日通りやリアルト橋に通じる小間物通りを外れると今までの人混みが嘘のように周りに人が居なくなります。
猫道のような暗くて狭い路地を抜けますとパッと視界が開け井戸と協会があるカンポと呼ばれる広場に出ます。ヴェネツィアの魅力はこの意外性にあるのかもしれません。
気候が良く観光客が多くない時に少なくとも一週間も滞在すればその魅力を充分味わうことができそうです。

滞在したホテルは前述の三月二十日通りから入る袋小路の突き当りが入り口でした。
ホテルを出て通りを横切りブティック横の路地に入り橋を渡りさらに進むと不意に左正面にフェニーチェ劇場がある広場に出ました。
夏はオフシーズンですからもちろん劇場は閉まっております。

椿姫やリゴレットの初演で知られ、世界で一番美しい劇場と言われておりましたが惜しくも1995年でしたか火災に遭い再建されました。不死鳥と称される所以であります。
ヴェネツィアは地理的に特殊な地ですからこの劇場に馬車で乗り付けることが不可能で貴族や富裕層はゴンドラで劇場にやってきました。優雅なことです。
(お金さえあれば今でもできるようです。ダニエリあたりに泊まりコンシェルジェに頼めば手配してくれます。いくらかかるかは知りません。)

車寄せならぬ船寄せがあるはずだと思い劇場の裏手に回りましたがそれらしいものは見当たりませんでした。
記録によりますと創設時の決まり事で「入り口はメヌオ運河に面すること。大型ゴンドラ用にその幅を最低6メートルは確保すること。」とあるそうです。
これがそのまま残っているとすればかなり大きいはずですがその痕跡すらありません。
優雅な風習は廃れてしまったのでしょうか?
(後日ゴンドラでこの劇場に行った経験のある方に伺いますとどうやら入り口は狭くて目立たないのですが外から見えない劇場の中に広い船着き場があるそうです。
ゴンドラで行くと劇場の案内人が下にも置かない位馬鹿丁寧な応対だったそうです。)

船寄せは見つけることができませんでしたがその代わりにポンテ カラス(カラス橋)という小さな橋を発見しました。
カラスとは言うまでもなくマリア カラスのことです。
はてカラスはヴェネツィアで歌ったかな?とその時は思い出せず帰国してから調べますとなんと数あるカラス伝説の舞台の一つであることが分かりました。

カラスは1947年から1954年までこのフェニーチェに途中抜けた年はあるものの毎年のように出演しておりました。
残念ながら当時の公演の音源がございませんのでカラスのフェニーチェ出演が咄嗟に思い出せなかったのです。記録にあります1954年にバスティアニーニと共演したルチアなど想像するだけで胸が躍ります。

さて伝説となりましたのは1949年のことでした。カラスは名伯楽セラフィンに見出されキャリアの初期にヴァーグナーのロールをよく歌っていました。
フェニーチェでも1947年にトリスタンとイゾルデのイゾルデを歌っています。この時のブランゲーネはバルビエ―リが歌っておりました。
カラスは太っていて演技的に全く動けずまるで太い木のようだったと後にバルビエ―リは語っています。
後年の鬼気迫る演技で聴衆を魅了したカラスからは想像できません。

1949年にはヴァルキューレのブリュンヒルデを歌いました。1月8日から16日までの間に4公演予定されておりました。その後はカロシオ主演でベッリーニの清教徒が予定されておりましたがカロシオがキャンセルになりカラスに代役が振られたのでした。

清教徒の初日は19日でしたのからわずか3日で清教徒のエルヴィーラを憶えて舞台に立ったという伝説が生まれたわけです。実際には1週間前に言われたそうです。カラスも駆け出しの頃で必死だったのでしょうがアリアぐらいはさらったことがあったといたしましても1週間で役を憶えるというのは大した集中力と言えます。でもこれだけなら他の歌手でも可能な人はいらっしゃるでしょう。

驚くべきはブリュンヒルデのようなドラマティックな役からベルカントでアジリタ唱法を駆使するエルヴィーラへの歌い方の切り替えです。よくソプラノの方は声を重く歌うようにすると軽く歌うポジションになかなか戻せないとおっしゃいます。例えばニルソンがルチアを歌うことを想像できるでしょうか?

録音が残っておりませんのでどのような状態だったのかは分かりませんがその勇気と根性は讃えられてもよいでしょう。カラスはメジャーになり1955年以降フェニーチェに戻ることはありませんでしたがヴェネツィアの人たちは劇場裏手の橋にカラスの名を冠してその偉業を永遠に記憶したのでした。

 

関連記事

  1. 三人の童子
  2. お父さんのためのオペラ実践講座 その4
  3. 巡礼の合唱  ―広島でタンホイザーを観てー
  4. 似て非なるもの
  5. オペラファンの生態学 その四  鑑賞派の中の書斎派の方達へ
  6. 『コシ・ファン・トゥッテ』…作者はみんなこうしたもの No.4
  7. 45年目の再読 その3
  8. 音楽留学生の弱点!?…チマローザ編 No.1

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

PAGE TOP