コラム

プロッティさん

イタリアオペラの偉大なバリトンの中で日本のオペラファンに最もなじみ深いのはアルドプロッティかもしれません。NHKイタリアオペラの初期に度々来日してリゴレット、椿姫のジェルモン、セヴィリアの理髪師のフィガロ、アイーダのアモナズロ、道化師のトニオ、アンドレア・シェニエのジェラールなど数多くのオペラに出演しました。
特にデル モナコと共演した道化師とアンドレア・シェニエはオールドファンの語り草になっている公演です。

キャリアの後半には民間オペラ団体の首都オペラに出演してオテッロのイヤーゴ、道化師のトニオを演じました。この他にリサイタルもありましたので日本でよくその歌声を聴かせてくれました。私は大学4年の時ですから1981年に銀座の中央会館でのリサイタルで聴きました。
西洋人としてはそう大柄な人ではなかったのですがその声量には驚かされました。

もう一人のイタリアの偉大なバリトン、バスティアニーニと活躍の時期が被りましたので比較されることが多かったのですがそれによりますと声量はあるが歌が一本調子でバスティアニーニよりは芸が一段劣るという評価が下されていました。
しかしそのレパートリーの広さと器用さではプロッティに軍配が上がります。
例えばカラヤンがウイーンで録音したオテロで楽譜をマスターできないバスティアニーニのピンチヒッターで急遽録音セッションに加わったのは有名な話ですしヴァーグナーのさまよえるオランダ人のオランダ人をイタリア語ではありますが演じています。
なんでもこなせる適応力があった人でした。
ただ社会的には不器用極まりなくて左派が主流の戦後イタリア社会で右翼であることを公言したためにスカラ座に出演しても当時の音楽ジャーナリズムから黙殺されるという憂き目にあいました。

1993年に首都オペラ公演の道化師で横浜でトニオを演じましたがこれがプロッティ最後のオペラ出演でした。これに立ち会うことができた方は本当に幸せだと思います。
この公演の裏方にいらっしゃった方の話ですと会場の神奈川県民ホールに本番当日この偉大なバリトンは出演者の中で誰よりも早く楽屋に入り舞台そででニコニコしながら裏方の仕事を見ているのだそうです。舞台が空くとそこでひとしきり発声練習をやり楽屋に戻ると衣裳のチェックをします。
その際に衣裳係を呼んでここをゆるくしてとかこの裾を長くというようにいろいろ細かい注文を出します。神経質で細かい注文が多くその度に「ダイジョウブ?」と聞いてきて「大丈夫ですよ。」と答えると嬉しそうに「アリガト。」と言うのだそうです。
「プロッティさんはサンペレグリノをいつも飲んでてね。それを横浜の高島屋で調達してきてあげるといつもニコニコして代金とチップをくれるのよ。」
とも言っていました。

衣裳係から見るとそう大きな人ではありませんでしたが背筋がものすごく発達していたそうです。オペラ歌手になる前に蒸気機関車に乗っていてシャベルで石炭をくべる作業が影響していたのかもしれません。
稽古では高齢でしたが声は素晴らしく周りを圧倒するほどの声量でした。ただ自分の型通りに動きたいらしく自分はこう動くからそれに合わせてくれと共演者に言ったそうです。

開演の1時間前になると楽屋で静かに楽譜を眺めていました。トニオは何度も演じているはずですからどんな状況でも歌えるにも拘らずこの確認作業には彼のオペラに対する誠実さが見えて感動的でした。

ジーリとの面白い話があります。1950年にヴェローナアレーナの野外オペラ‘運命の力‘でこの重鎮テノールと共演しました。この時ジーリ60歳、そろそろキャリアも終わりの頃です。若いプロッティの声を聴いてジーリは言いました。
「おう、若いの!お前の声は凄いな!勉強しろよ。お前は大歌手になれるぞ。ただよ。もう俺にはお前と張り合うだけの声がねえから二重唱はちょっと手加減してくれねえか。」
そう言われてヤングプロッティはこの大先輩の顔をつぶさないように細心の注意をして歌ったのだそうです。
プロッティはそういう人でした。

 

   

 

 

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