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間に合わなかったジークフリート

ジョン カルショー著‘ニーベルングの指環 プロデューサーの手記‘は世界初のヴァーグナーのニーベルングの指環全曲をウイーンでショルティが指揮して録音した際の回想録ですがオペラ好きにとりましては興味津々のドキュメンタリーであります。
古くはレコードの特典付録として付いておりました黒田恭一氏訳の書籍が出ており私は古本屋で高額で買い求め夢中で読みました。
今は山崎浩太郎氏の新訳本が出版されています。

この録音は1958年から1964年の6年にわたり録音されたもので今となりましてはいささか古くなりましたがホッタ―、ニルソンなどの全盛期の歌唱を聴くことができますので輝きを失っておりません。この中でジークフリートを歌っておりますのはヴォルフガング ヴィントガッセンです。彼の声でヴァーグナーのヘルデンテノールのロールを聴き親しまれた方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。
1967年に来日して大阪で‘トリスタンとイゾルデ‘をニルソンと歌いました。
1960年代のヘルデンテノールはヴィントガッセンただ一人の如き状況だったようです。
ただカルショーは回想録の中に実はジークフリート役に決めていた人材が居たのだが実現しなかったことを書いています。イギリス紳士の嗜みかそのテノールの名前は伏せてあります。

さてこうなりますとファンの心理としましてはそのテノールが誰なのか気になるところでしょう。私もとても気になり自分なりに推理したものでした。
アメリカ人のコックスあたりじゃないかと考えていましたが彼は1968年にローマで立派にジークフリートを歌っています。そのテノールが降ろされた理由は楽譜をマスターできなかったことにあるらしいのですがそうしますとコックスは違いますね。
はて誰だろう?と長らく悩んでおりましたがフランコ酒井氏の労作‘失われた声を求めて‘を拝読させていただき疑問が氷解しました。

そのテノールはエルンスト コズブでした。1924年東ドイツのデュイスブルクで生まれ1971年に47歳の若さで亡くなっておりますので日本ではほとんど知名度がありません。
クレンペラーのスタジオ録音の‘さまよえるオランダ人‘でエリックを歌っていますがそれが思い浮かんだ方はかなりのオペラ通です。

実はショルティはコズブとフランクフルトの音楽監督時代(1952年―1961年)に何度も共演しています。ショルティの回想録にはこう記されています。「コズブは素晴らしい声だったが音楽と歌詞を同時に覚えられなかった。それでも何度も輝かしい成功をおさめることができた。残念ながらメジャーになる前に死んでしまった。彼のことを想うと胸が熱くなる。」精力的なショルティはこのテノールのために自らピアノを弾いて何度も稽古を付けて役を覚えさせたに違いありません。多分その声、才能を愛していたのでしょう。

カルショーにコズブと契約したいと相談を持ちかけられた時、大丈夫かな?という不安とチャンスだから助けてやろうという友情がショルティの胸を交錯したのではないでしょうか。コズブにとってジークフリートは未知の役だったからです。
ウイーンでの録音に入る前にジークフリートをマスターするという条件で契約したものの途中で進捗状況をテストするために歌わせてみるとあまり進んでいるようには見えませんが声は素晴らしくこれがカルショーの判断を狂わせたようです。
限られた予算内で教師を付けたりあらゆることを試みましたが結局降ろされることになりました。
実は3幕から少しテスト録音をしたようです。そこでヴォータン役のホッタ―との芸格の違いがあからさまに出てしまいこれでカルショーも降ろす決断ができたようです。
これをコズブ自身も悟り素直に降板勧告に従ったのだそうです。

こうなりますともはやすぐにでもジークフリートを歌えるヴィントガッセンに頼み込むしかありません。ちょうどウイーン国立歌劇場に出演中でウイーンに滞在中のヴィントガッセンに恐る恐る頼みに行ったところ皮肉を一言も言わず黙ってスケジュール帳を取り出したのだそうです。

今回ご紹介いたしますのは1955年にフランクフルトで放送用に録音された魔笛であります。指揮はショルティでタミーノはコズブが歌っています。ショルティが自分の思い通りに音楽ができた良き時代の記念碑です。コズブは少し粗削りですが本当にいい声です。
1968年録音のクレンペラーの指揮で録音した‘さまよえるオランダ人‘のエリックさらに洗練されていてもう少し長く生きてジークフリートをマスターしてリヴェンジして欲しかったものです。
他のキャストではパミーナのグリュンマーが年頃の娘の情感をよく表現していて秀逸です。
夜の女王はケート、ザラストロはフリックですが他のキャストは知名度はありませんがバランスはとても良いです。3人の童子がやけにうまいと思いましたらレーゲンスブルクの聖堂の聖歌隊の子供たちでした。

モーツアルト  魔笛  1955年 フランクフルト 放送録音

パミーナ/グリュンマー タミーノ/コズブ 夜の女王/ケイト ザラストロ/フリック
弁者/ヴォルフ パパゲーノ/アムプロジウス 他

ショルティ指揮  ヘッセン放送響 合唱団

WALHALL  2200円

 

 

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