コラム

1960年 夏 ローマ

ローマの歌劇場のことを書きましたのでもう一つローマでの話をご披露いたします。

題名が 「1960年 夏 ローマ」と何やら三題噺のようですが皆様は夏のイタリアにいらっしゃったことはおありでしょうか?

太陽の国イタリア!はよろしいのですが日中は熱くてほとんど人通りがありません。
夕方と申しましても夜ですが日が沈むころになりますと広場に人が出て来て長い夜を楽しみます。
1960年のローマの夏も暑かったのではないでしょうか。

ローマには聖チェチーリア音楽院がありそこのオーケストらが伝統ある名門であることはご承知のことと思います。
現在はパッパーノガシェフです。

ご年輩のオペラファンであれば第二次大戦後の1950年代から1960年代にデッカが制作した一連のイタリアオペラの全曲盤のオケとしてご記憶なのではないでしょうか。
テバルディ、デル モナコ、バステイァニーニ、シミオナート、シエピなど戦後の黄金期のスターを配したそれらの音源は彼らが物故したいまでもその輝きを失っておりません。

若い頃夢中になって聴かれた方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。
私は今でも時折取り出してリューやミミを歌うテバルディの天使の声やデル モナコとバスティアニーニの運命の力の白熱の二重唱を聴くことがあります。

デッカはこのシリーズで1961年にヴェルディの仮面舞踏会を制作しました。
リッカルドにベルゴンツィ、アメリアに二ルソン、レナートにマックニール、ウルリカにシミオナートという配役です。
一流の人たちですが微妙に新旧交代の綾が感じられます。

ベルゴンツィはこの役を得意としていて東京でも演じましたがこの頃は売り出し中の新鋭でしたしニルソンもバイロイトでジークリンデからブリュンヒルデに昇格した頃、マックニールはドミンゴとストラータス主演の椿姫の映画でジェルモンを演じたアメリカのバリトンですがこの頃ようやくヨーロッパでの知名度があがってきた頃でした。

指揮はショルティ、プロデューサーはカルーショーであの史上初のヴァーグナーの指環全曲のレコードをウィーンで制作したコンビです。

この企画は1年前の1960年に計画されていたのですが途中で中止となりました。
原因はリッカルド役のユッシ ビョウルリンクが途中降板となったためでした。
理由はビョウルリンクの過度の飲酒によるものとされています。この説はカルーショーの回想録に書いてありますのでそれに拠ります。それを鵜吞みにして深酒による怠惰が原因で降ろされたというのが日本では定説になり私もそれを信じておりました。

ビョウルリンクのリッカルドと言えば当時のオペラファンは争って買い求めたに違いありません。ビョウルリンクは1960年に49歳という若さで他界してしまいましたのでそのレコードは夢と消えました。
音も悪く共演者もさえないライブ録音で我慢するしかありません。

しかし私自身、馬齢を重ねるに従いそれが真実かどうか疑うようになりました。
ビョウルリンクは5歳から舞台に立っているプロ中のプロでした。その人が録音を前にして歌えないほど飲んだでしょうか?
当時のMETの支配人ビングの回想録にもビョウルリンクは飲酒癖があり度々キャンセルするのでプロ意識に欠けるというようなことが書いてあるのは事実ですが、ただ後世に残るレコード録音の現場でさすがにそれはしないと思うのです。

ビョウルリンクは49歳と言う若さで亡くなったにしてはオペラの全曲盤のレコードをかなり遺しています。だらしない歌手でしたらそれは無理でしょう。
ビーチャムの指揮で録音したラ ボエームで共演したロス アンヘレスは彼の声について「レコードで聴くことが出来る声とは比べ物にならない程いい声だったわ」と後にコメントしています。

答はウィーンで入手したビョウルリンクの伝記にありました。
この本はJussiという表題でビョウルリンク夫人のアンナ リサとアンドリュー フォルカスの共著です。その中でこの時の事情を一章割いて書いています。

それに拠りますと1960年ビョウルリンクは暑い盛りの7月にローマ入りしました。
録音会場は聖チェチーリア音楽院の大ホールです。
この時代にはエアコンディショナーが無く会場は40度くらいの暑さだったのだそうです。

ビョウルリンクの健康状態も良好とはいえず心臓と胃に疾病を抱えていましたが声のメンテは完璧で数カ月前にウィーンでライナー指揮のヴェルディのレクイエムの録音をこなしています。

仮面舞踏会のリッカルドはこのローマ入りまでにブッシュ、クリップス、ミトロプーロス、ワルターなどの指揮で38回歌っていました。特にトスカニーニに指導を受けたことを誇りに感じていてそれを後世に伝えるためにレコード録音をするという使命感に燃えていたそうです。

またこのオペラの物語自体が母国スウェーデンの宮廷の話が基になっていますし共演のアメリア役が同郷の二ルソンということで上機嫌だったようです。

稽古が始まりました。ショルティは当時48歳、フランクフルト市立歌劇場のシェフでした。鉄の意志で自分の主張を通す強面の指揮者であります。ビョウルリンクは不整脈があり暑いホールで長時間拘束されるのを嫌がりました。そして役については知り尽くしているという自負も強くピアノリハーサルは休みがちだったそうです。

これがショルティの逆鱗に触れたのか、カルーショーを介して歌い方を変えろと言われました。アゴ―ギグ、フレージングすべてだったそうです。それはビョウルリンクの芸の全否定でした。
「この役は私のほうがよく知っている!」とビョウルリンクは言いました。

これで決裂してしまい詫びを入れてまで歌う気がしなくなりビョウルリンクは降板しました。どこまで録音が進んでいたのか分かりませんがファンとしましては一大痛恨事であります。

ショルティはフランクフルトでやっている流儀で歌手に接していたようですがキャリアのあるビョウルリンクにはいささか礼儀を欠いていたようです。
またカルーショーもあるフレーズをもう一度歌わせてくれとビョウルリンクが頼んでもまるで取り合わなかったようです。
このようにデッカのドル箱コンビとスウェーデンの名テノールの相性は最悪でした。

レナート役のマックニールは歌手仲間としてこの偉大な同僚にかなり同情しています。
そして飲酒癖のついてはきっぱり否定しています。

芸術上の見解の相違で降りたというのなら不名誉なことではありませんが飲酒癖が原因で降ろされたというのはあまりにひどい讒言でカルーショーの悪意を感じます。
罪深い嘘であります。
この年の秋にビョウルリンクは他界します。この一件は彼としてもかなり心残りだったのではないでしょうか。
せめて指揮者がデッカであれば練達のオペラ指揮者、エレーデだったらと思いました。

ビョウルリンクをベルゴンツィに替えて一年後に制作した仮面舞踏会を聴きますとぶっきらぼうなアタック、ダイナミックではあるが無神経なオケの鳴らし方などショルティの悪い面しか感じられません。

それとカルーショーの趣味かもしれませんがリアリティを追求するあまり声が遠く小さく聴こえます。実際の劇場で聴いたらこうなのだということなのでしょうがオペラファンとしましては声を充分に聴きたいところであります。

因みにカラヤンがウィーンで録音した有名なオテッロを聴かれてそのように感じられませんか?これもカルーショーの仕事です。

ショルティとビョウルリンクはこの年48歳と49歳でした。
同世代のプロ同士は理解しあえなかったようです。

さてビョウルリンクの声を聴いたのは大学生の頃だったでしょうか。
レオンカヴァッロのマッティナータとチレアのフェデリーコの嘆きは今に至るもこれを超える歌唱を聴いたことがありません。
彼のリッカルドを聴きたくてMETライブの高価な海賊盤を買い求めたのも懐かしい思い出です。

このテノールをもっと知りたいと思われる方は故ドナルド キーン氏の「ついさっきの歌声は」(中央公論社)を読むことをお勧めします。
絶版ですがオペラバフにはございます。

 

 

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