コラム

特別寄稿 ローマ歌劇場出演記

数年前にリタイヤされ今はアマチュアのバス、バリトン歌手としてオペラを楽しんでおられる井上さんが先日のローマ歌劇場のトスカの来日公演でエキストラに抜擢され、1幕幕切れのテデウムの場で枢機卿を東京、横浜で3回務められました。

ヨンチェヴァ、グリゴーロなど世界の一流歌手やスタッフ達との共演は忘れることができない貴重な体験だったようです。
その体験記を手前共のホームページに寄せていただきました。
どうぞご覧ください。

オペラバフ 店主


【ローマ歌劇場出演記 井上 賢】

 「ローマ歌劇場の来日公演『トスカ』に助演出演しました」と宇田川さんに伝えたら、「その体験話を寄稿して」と頼まれました。宇田川さんとは舞台を共にして以来の飲み仲間ですが、その都度、人懐っこい笑顔で何かしら頼まれます。今年2月の「魔笛」でも「合唱で出てくれ」と言われて承諾したら、薩摩藩兵の隊長、奴隷、神官Ⅲという、とんでも三役をするはめになりました。憎めないお人柄で、今回も酒席で引き受けることになりました。

 助演とは、歌は歌わず演技のみで舞台に立つ「黙役」のことです。海外のオペラハウスは歌手、楽団、合唱を引き連れて時折引越し公演をしますが、助演は現地調達するのが一般的で、主に俳優事務所に応募情報が出回るのだそうです。私は申込期日(9月5日)の前日にオペラ仲間からその情報を聞き、ギリギリで応募して東京文化会館に滑り込みました。実は、演技のオーディションは初めてで、不安だらけでした。
 9月6目、再演演出のマルコ・ガンディーニは壁にずらり並んだ応募者を眺め回した後、「何番、何番…」とランダムに呼び出し(私は24番の札を胸に付けていました)、部屋の中央でテーマを与えます。応募者は自分なりに演じるのですが、頃合いで「はいそこまで」と止められ、「あなたはこっちに、あなたはあっちに」と選り分けられていきます。
 「24番!」は最後の方で呼ばれました。紙を1枚渡され、『歩きながら両手でこの紙をゆっくり捧げ上げ、静止』という課題を与えられました。『隊列を組んで歩く』など集団動作の受験者が多い中、私一人だけがその演技をさせられました。「枢機卿(cardinale)」の試験だったのです。集団動作の合格者たちは兵士、警察の手下、僧侶、市民などになりました。”マルコは受験者をパッと見回して、各応募者の役柄を見切っていたのです。後で知るのですが、枢機卿が着る法衣は長身者向け仕立てで、かつ金糸銀糸の刺繍で豪華絢爛に作られていてずっしりと重いのです。しかも宝石をちりばめた黄金の重い神器を高々と捧げ上げる所作も求められました。間違いなく、私は体格で枢機卿に選ばれたのでした。
 その枢機卿はこのオペラの第1幕の最後に登場します。そのあたりをこのオペラの時代背景と第1幕のあらすじをご説明する形で解説致しましょう。

 舞台はフランス軍とオーストリア軍が衝突したマレンゴの戦い(1800年6月14日)の第1報が届く6月17日のローマです。ローマはその数年前からイタリア軍司令官として駐留したナポレオンの支配下にありました。彼に共感したローマ市民は教皇の権力崩壊と共和国の成立を宣言し、ナポレオンはこれを公認しました。しかし、教皇勢力が巻き返し、当時のローマは守旧派が共和主義者(ヴォルテール派)を徹底的に弾圧するさなかにありました。第1幕はそのヴォルテール派の政治犯アンジェロッティが脱獄して、妹が逃走用の女装衣装を密かに用意した教会に逃げ込むところから始まります。

 敬虔なクリスチャンで嫉妬深い歌姫トスカは、恋人で画家のカヴァラドッシがマリア像を制作中の教会に向かいますが、その扉は閉ざされていて、中から人の話し声が聞こえます。教会の中ではカヴァラドッシが同志アンジェロッティと再会し、彼に裏道を通って自分の隠れ家の庭の井戸に隠れるよう伝えていたところでした。
 他の女がいたのではといぶかるトスカをなんとかなだめ、アンジェロッティと共にカヴァラドッシが去ると、そこに脱獄犯を追って冷酷無比な警視総監スカルピアが登場。アンジェロッティが置き忘れた妹の扇子を見て全てを掌握するや、その場に現われたトスカにカヴァラドッシとアンジェロッティの妹との不倫を疑わせて嫉妬心をあおり、恋人の元へと急ぐトスカの後を手下に追わせます。一方、ローマにはマレンゴの戦いでナポレオン軍が敗走したとの一報が伝えられ(実はナポレオン軍は加勢を得て盛り返し、翌日にはオーストリア軍が敗走するのですが)、守旧派は勝利を導いた神に「テデウム(神を称えるミサ)」の大合唱を捧げるべく全市民に召集をかけます。枢機卿はその荘厳な大合唱の中を最後に登場します。その傍らに立つスカルピアは「カヴァラドッシを処刑し、トスカを我が物にしてやる」との邪まな決意を「テデウム」の旋律に重ねて歌い上げるのです。

 演出は豪華な演出手法で絶大な人気を博した故ゼッフィレッリ(映画監督としても有名で、あのオリビア・ハッセー主演の「ロミオとジュリエット」も彼の作品です)版の再演で、セットも衣装も実に豪華でしたが、彼は枢機卿をひときわ目立たせる演出をしました。即ち、ステージの中央で祭壇に向かって神器を挙げ、神に感謝を捧げて御役御免ではなく、それから客席に向き直って数歩進み出、会衆に祝福を与えるべく神器を再度持ち上げ、高く挙げ切った直後に最後の和音が鳴り止み照明が暗転して1幕が終わるという演出です。
 さて、本番初日、大役を無事果たしたものの、マルコから神器を降ろすタイミングを指示されていないことに気づきました。私は、拍手が続く暗転の数秒間、迷いながらも重たい神器を挙げ続けました。その残像が輝きを増して復元したのでしょうか、再点灯した瞬間、歓声が上がり拍手が更に増しました。ふと、降ろすきっかけを完全に失したことに気づきました。腕がプルプルしそう・・・。待つこと十数秒、下手から合唱指揮者が登場、中央でお辞儀をしました。空気が変わり、やっと降ろすことが出来ました。幕が閉まり、マルコが袖で親指を立てて私を迎えてくれました。彼の笑顔とグーサイン、今も目に焼き付いています。

 主役のヨンチェヴァ(トスカ)、グリゴーロ(カヴァラドッシ)、プルデンコ(スカルピア)の美声を生で聴き、豪華な衣裳をまとって、重厚なセットをパックに、正にトスカの舞台であるローマを本拠地とする歌劇場と共演できたということ、しかも満席の大ホールの全ての拍手を一身に浴びた(気になれた)ことは一生の宝物となりました。もうこんな素晴らしい体験はできないだろうと思いましたが、事務局には「また助演募集があったらお声をかけてください」とちゃっかりお願いしておきました。

以上


井上賢プロフィール

 東京大学経済学部卒業。2013年『オテロ』のモンターノでオペラ初出演後、『ラ・ボエーム』ベノア、『仮面舞踏会』トム、『カルメン』モラレス、『トゥーランドット』ピン、『愛の妙薬』ベルコーレ、『フィガロの結婚』アルマヴィーヴァ伯爵、『ジャンニスキッキ』公証人、『ドン・ジョヴァンニ』騎士長、『オテッロ』ロドヴィーコ、『魔笛』ザラストロに出演。他方、ドイツリートを研鑽し、シューマン『ミルテの花』、マーラー『子供の不思議な角笛』を演奏。男声合唱団「アイビーメンネルコール」指揮者。石崎秀和氏に師事。

 

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