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魔笛公演に際して

私は物心ついたころから落語が好きでラジオに耳を傾けよく聴いたものです。
好きと申しましても師匠たちの芸を聴き分けるほどのマニアックなファンではなく、一人の人間の語りで良くあそこまで生き生きと江戸や上方の情緒、風情を表現できるなと驚くと同時に無心に楽しんでおりました。
特に関連のない三つのお題を短時間でまとめる三題噺は、プロの技を感じました。

さて私は下記の三つのお題が頭から離れません。
➀ オルガン併設のコンサート専用ホール
➁ クリスマスコンサート
➂ サン サーンスの交響曲第三番「オルガン」
その心はキリスト教の無理解、無関心であります。
まずオルガンは礼拝の奏楽用であり世俗のコンサート用のものではございません。
クリスマスはキリスト教の大事な祭日でありコンサートをやる日ではありません。
サン サーンスの人気曲であるオルガン付きですがこれもオルガン自体を単に楽器の一つとしかみていなくて礼拝とは何の関係もありません。
サン サーンスはフランス人ですが要するに日本では聖俗を意識していないケースが多いということです。

私はクラシック音楽の演奏家であります。クラシック音楽がヨーロッパを起源としていることは自明のことでありますがクラシック音楽を演奏することを職業としている以上そもそもヨーロッパとは何かという問題に突き当たります。
浅学菲才の私でもヨーロッパ、西洋の思想の根幹を成すものの一つがキリスト教であるということは理解できます。
欧米では音楽家は大変尊敬されます。これは膨大な蓄積のある宗教音楽を演奏して芸術面で神の存在証明をしているという意識が共通認識としてあるからだと思います。

 


(撮影:熊澤幸生)

 

残念なことに戦争、自然災害、感染症などに音楽家は無力です。真っ先に仕事を失い支援がなければ生きていけません。キリスト教の教え「受けるより与えるほうが幸いである」はまるでできないことになります。
いざというときに何の役にも立てないジレンマはここ数年強く感じています。

では世のため人のためにできることはないのか?
私はごくシンプルに考えることにしました。
それは人を育てるということであります。

育てるということは指導するということ以上に機会を提供するというのが大切なことです。
オペラの上演に際しては音楽面だけとりましても歌手、オーケストラ奏者、音楽スタッフなどあり今回の公演でも80名以上の音楽家が恩恵を受けました。大変ありがたいことです。

今回のオーケストラ奏者は、若い人を中心に構成しております。現在の日本ではオペラ上演に参加できる機会は多くないので歌と合わせて舞台を作る歓びを共有できることでしょう。モーツァルトは、現代の楽器奏者にとりましても基本的かつ必須のレパートリーであり、その一番の醍醐味はオペラにあります。
フォルテと楽譜に指示があってもそれが愛情なのか、復讐の誓いなのか、王への賞賛なのか、幅広いニュアンスで表現しなければなりません。

 


(撮影:熊澤幸生)

 

しかも生身の人間の声との調和をイメージして演奏しなければなりませんので、無神経な発音は歌を台無しにする危険があり気を使います。
歌手は大きな空間で、広がりのあるオーケストラの伴奏での歌を心掛けなくてはなりません。自ずと発語や芝居も変わってくるはずです。

魔笛は価値観の揺らぐところが面白い作品です。
最初と最後では正邪が逆転しているとも言えます。
価値観の揺らぎは人間として当然ではありますが、それを音楽で表現できたのはモーツァルトの人間に対する愛情の深さだと思います。

魔笛では、夜の女王の一派はザラストロに敗れ地中に沈みますが夜の女王とザラストロの与えられたアリア二曲ずつを比較してみますと音楽としては夜の女王の圧勝です。
台本の世界観はそのままにモーツァルトはさらに音楽で回答しています。
それは夜の女王のアリアのほうが音楽は断然魅力的でそこにこの登場人物に対する愛があふれているように思えてなりません。

世の中は単純に割り切れません。しかし高所から俯瞰すれば神の愛に抱かれています。
そのようなメッセージをモーツァルトが送っているように思います。

 

中橋健太郎左衛門

 

 

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