オペラでテノールに振られる役と申しますと恋人、英雄など若くて凛々しい役が多いものです。
従いましてずんぐりむっくり、小柄、短足の三拍子揃った典型的日本人体形ですと相当無理があります。
オペラは容姿ではなく声であるという方もいらっしゃると思いますがやはり容姿は良いに越したことはありません。
お気付きの方もいらっしゃると思いますがテノールには背の高い人は稀で比較的低い人が多いようです。マリオ デル モナコもオテッロに扮するときはシークレットブーツを履いておりました。テバルディなど上背のあるソプラノと共演するときは滅多に横に並ぼうとせず階段がセットにあれば常に一段上で歌ったのだそうです。
昔、玉川カルテットと言うコメディアングループがありましたがそのギャグフレーズに「金も要らなきゃ女も要らぬあたしゃも少し背が欲しい」というのがありましたがまさにスターテノールとしては深刻な問題だったのでしょう。
上に伸びずに横に伸びてビア樽のようになってしまう人も多いのですがこれも問題でしょう。
あるオペラの打ち上げの席で若いテノールと隣り合わせになりました。仮にA君としておきましょう。
A君の歌はハートが感じられて私は大好きなのですが容姿は典型的な日本人で丁髷でも結えば江戸時代の田舎の小藩の御の納戸役にでも居るような侍がよく似合いそうでした。
その時A君は「この顔ですからね。これでマンリーコやったら笑いとっちゃいますよね」と自嘲的に笑いながら言いましたが、彼も若い野心のあるテノールの一人ですからいつかはやりたいのでしょう。けして目は笑っておりませんでした。
テノールのレパートリーにはキャラクターテノールという分野があります。
例えばヴァーグナーの二―ベルングの指環に出てくるミーメ、モーツアルトの魔笛のモノスタトス、チャイコフスキーのエフゲニ オネーギンのトリケなどです。
どちらかと申しますと容貌魁偉でコミカルな役が多いのでプリモテノールを目指している若い人にはこういった類の役をやるのは抵抗があるのかもしれません。
このA君にモノスタトスの役が舞い込みました。この話を聞いた時、酒の酔いも手伝い「適役じゃない」と言ってしまったのは彼を多少傷つけたかもしれません。
A君の偉いところはこの依頼に腐らずにそれなら誰にも真似できないモノスタトスをやって見せようと考えたことです。
魔笛のモノスタトスはムーア人でパミーナに横恋慕してそれがために夜の女王に寝返ります。屈折した三枚目で演じ甲斐のある面白い役です。
私がテノールであれば演じてみたい役の一つであります。
三枚目ですが私は子のモノスタトスは大変な美男だと考えています。
肌が黒いことで惚れた女に拒否されそれが負い目となり何事にも自信が持てず結局破滅してしまう悲しい男です。
大胆に申し上げればオテッロの弟分だと思います。そう考えると月を見ながら歌うアリアが何とも優しく哀切に響くことでしょう。
A君はとにかく勉強して稽古に励みパミーナ役のソプラノに「モノスタトスをどうお考えでしょうか?もし参考にしていただけるなら蛇蝎のように嫌うのではなく,いい奴、どうかもしれないんだけれどもどうしても受け入れることが出来ない男と思い演じてくれますか」と言ったのだそうです。
するとパミーナ役のソプラノがぽろぽろと涙を流して泣き出したのだそうです。
似たような経験があったのかもしれません。逆にA君にも苦い恋の思い出があったのでしょう。
飲み屋の片隅でこの話を聞いた時A君のモノスタトスを観たいと真剣に思いました。
欲望だけに血も涙もない男にモーツアルトがあのように哀切で美しいアリアを与えるでしょうか?
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