お知らせ

コンスタンツェさん

モーツァルトの細君はコンスタンツェさんです。
旦那が不世出の天才でしたので歴史にその名を留めました。ただ気の毒なことに悪妻、愚妻のレッテルを貼られてしまいました。

その理由がモーツァルトの弟子、ジェスマイアーと不倫していた。浪費癖があった、モーツァルトの埋葬にも立ち会わず墓標も建てなかった。モーツァルトの遺産である作品の楽譜でがめつく儲けたなどもう酷いものです。

実態は想像するしかないのですが私はごく普通の平凡な女性だったのではないかと思います。
モーツァルトと結婚してさえいなければごく普通で無名な人として一生を終えたことでしょう。

例え妻としては失格だとしてもモーツァルトはこの女性を愛し結ばれました。
それ以上でもそれ以下でもありません。それだけでよろしいのではないでしょうか。
皆様もご存じの通り夫婦のことはご当人でないと分からないものです。

天才の妻なのだから才色兼備の女性でなくてはならないという理屈はありません。
19世紀の作曲家の女房と言えばクララ・シューマン、コジマ・ヴァーグナーなどが思い浮かびますが彼女たちと比較するのは酷というものでしょう。

天才の妻はそうあるべきみたいな論理が先行してそれにあてはまらないと実は酷い妻だったということに落ち着くのでしょうか。
そうだとしましたらなんとも気の毒なことです。

コンスタンツェさんはドイツ南西部、バーデン・ヴィルテンベルク州のツェル・イム・ヴィーゼンタールという小邑の生まれです。
そこは現在小公園になっているようです。また薔薇の品種でコンスタンツェ・モーツァルトというのがあるそうです。

四姉妹の三番目で姉妹は上からヨゼーファ、アロイジア、コンスタンツェ、ゾフィーでした。
芸能一家でヨゼーファは魔笛の初演の夜の女王、アロイジアは最も才能があり後にウィーンの宮廷歌手となりゾフィーも女優として舞台経験がありました。
コンスタンツェも1783年にモーツァルトの大ミサ曲(K427)の独唱をしたそうですからそれなりには歌えたのでしょう。
また父方の叔父の子供で従弟に当たるのが魔弾の射手を作曲したウェーバーでした。

父親の転職に伴いマンハイムに転居してここでモーツァルトと知り合いました。
父親のフランツ フリードリン ウェーバーはここで写譜屋をしていたようです。

さてモーツァルトはこの一家と知り合いアロイジアの歌の才能にほれ込みそれが恋愛感情に変化したようですがそれは実らずウィーンで一家と再会した時アロイジアは既に結婚していました。

それでは三女のコンスタンツェはどうかということで母親のチェチーリアになんとなく勧められてその気になっちゃったようです。
基本的にモーツァルトは親からすれば聞き分けの良い子で女性については初心に等しかったのではないでしょうか。
それが許嫁とも言うべき女性が出来たのですから天にも昇る心地になったということは容易に想像できます。

父親に結婚を祝福してもらいたくて書いた手紙は涙ぐましい一途さで胸に迫ります。
父親はウェーバー家が気に入らずあまりいい顔はせず認めるのも渋々といった感じでした。
ウェーバー家の河原乞食的な劇場依存の生活が気に入らなかったようです。まあモーツァルト家も似たようなものですが。

めでたく1782年8月4日にウィーン、シュテファン教会で結婚しました。
コンスタンツェさんは20歳でした。

僅か8年の結婚生活でモーツァルトと死別後コンスタンツェさんは再婚したり二人の男の子を育てたりかなり多忙でした。
その事績を見ると案外しっかり者という印象です。

評判はどうであれ彼女の最高の功績はモーツァルトの作品を散逸させずに後世に伝えたことです。これは大殊勲と言えるでしょう。
これは誰にも否定できません。

墓はザルツブルクにあります。

公演チケットのお申し込みはこちら -後宮からの誘拐

 

 

関連記事

  1. 序幕の人々 その二
  2. 2月モーツアルトの名作「 魔笛」上演 / オペラバフ主催
  3. 「ナクソス島のアリアドネ」を上演
  4. セリムのハーレムの位置
  5. 「ナクソス島のアリアドネ」あらすじ
  6. タミーノ 罷り通る
  7. コシファントゥッテというオペラ その2
  8. 序幕の人々その三 作曲家

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

PAGE TOP