コシファントゥッテ。このモーツァルトの名作オペラは言うまでもなくダ ポンテ三部作の最後を飾るものです。
ダ ポンテ三部作の他の作品であります、フィガロの結婚、ドン ジョバンニと比較しますとちょっと地味な印象がありますがモーツァルトはこのオペラに天国的に美しい音楽を書きました。
初演は1790年1月26日、ウィーンのブルク劇場でした。
不幸なことに2月20日のヨーゼフ2世崩御で10回足らずの上演で打ち切られました。
この作品はこのヨーゼフ2世がダ ポンテとモーツァルトに依頼して作らせたと言われております。コシファントゥッテを直訳いたしますと「女はみんなこうしたもの」となりますがフィガロの結婚で1幕のドン バジリオの歌詞の中にこの文言があるのをご記憶の方もいらっしゃるでしょうがまさにこれを聴いて皇帝が思いついたと言われています。
他にもウィーンで起こった同じような事件をオペラにせよと皇帝が命じた説があります。
初演から19世紀を通じてこの作品はほとんど無視されておりました。
ご婦人の貞操を試すというテーマが不道徳さをベートーベンは指弾し呆れたことに私生活ではめちゃくちゃだったヴァーグナーまでも非難します。
驚くべきことに再評価されたのは20世紀になってからです。今では世界中の歌劇場で上演されているのは申すまでもないでしょう。
わが国でも旧民法では姦通罪は女性には大変厳しいものでした。
男の畜妾、女遊びは甲斐性と言われ、女の浮気は不義密通とされ貞操観念のない淫婦と言われます。こうした不公平は長らく続きました。
多分モーツァルトの生きた18世紀から19世紀の欧州も傾向は同じだったでしょう。
故にこのコシファントゥッテは冷遇されたのです。
女性にとり婚約者や夫以外の男を好きになることはかなりの勇気のいることだったのでしょう。
ただ男も女もお同じ感情を持つ人間ですからあり得ることです。
ヨーゼフ2世は専制啓蒙君主として名高い人でした。民衆の心を理解しようとしていたのでしょう。中途半端で終わった政策も多かったようですが開かれた物わかりのいい君主になろうとしていました。
このコシファントゥッテを作らせたのもその一環だったのかもしれません。
建前、世間体でしか生きていない上流社会には飽き飽きしていたのでしょうか?
その急死後次の皇帝はレオポルト3世になりました。彼は宮廷お抱えの台本作者のダ ポンテを解雇しましたのでここでモーツァルトとダ ポンテの共同作業は終止符を打ちました。
何故かダ ポンテはその膨大な回想録の中でこのコシファントゥッテにはほとんど言及していません。
ヨーゼフ2世の治世下でモーツァルトの不滅のダ ポンテ三部作は作曲され初演されました。
これはヨーゼフ2世の一番意義のある文化的な大仕事だったかもしれません。
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